日本のプロレス

歴史を紐解いていく

プロレスの始まりを見て行くと、その起源はやはり人類として現代にまで語り継がれている技術の大半が開発されたヨーロッパ、その中でも特にイギリスを基準として進化してきた。それはやがて語り継がれるようにアメリカへと流れていき、初期の頃は大道芸の一環として行なわれていた事が理解出来る。この点からプロレスというものがいかに娯楽要素を前提とした見世物というのを読み解けるが、それは現代でプロレスを真剣に行っている人間からすれば、遊びで命をかけているわけではないという人にしてみれば、侮辱でしかないかもしれない。実際、日本のプロレスを見世物と発言した元プロレスラーの発言には、現役で活動しているレスラーの面々に逆鱗に触れるが如く激高を招いたという話が出たほどだ。だが観衆としてみた場合、本気で取り組んでいるんだなぁと感心するように見ている人というのは、残念ながら少数派として見た方が早いだろう。いまや情報源となるインターネットなどのツールを用いれば、団体は否定こそしているが一部の内部告発などを元にして、アメリカ・WWEのように台本を元に試合を構成しているというものがある。エンターテインメントというモノである事は理解しているはずなのだが、やはり殴打の嵐を繰り広げている暴力的なシーンが連続して行われることもあって、シナリオが組まれていることを全面的に押し出したくないというのがあるのかもしれない。

それだけ日本にとってもプロレスというものがスポーツとして親しまれている由縁なのかもしれないが、時に不自然な試合が展開されているのを見ることもあるのだから、一説に認めてしまえばいいのではないだろうかと思うのだが、真剣さを売り物にしているあたりがその点で妥協することは出来ないところなのだろう。一時期は国民的スポーツとして親しまれて、国民的人気レスラーまでが誕生した日本のプロレスとは、何処からその黎明を迎えることになったのかを分析してみよう。

始まりのプロレスラーと、プロレスの輸入

プロレスというものが日本国内で初めて展開されたのは明治20年に、三国山という日本人がプロレス興行を行った事がこの国で初めてのプロレス興行となっている。結果だけを述べるのであれば、それは悲惨というものを絵にしたような結果だけが残された。その後も隆盛は広がらず苦戦することになるが、大正20年になるとアメリカのプロレスラー『アド・サンテル』とその弟子『ヘンリー・ウェーバー』が来日し、空手の老舗である講道館に対戦を要求するのだが当然わけも分からないところからの挑戦を受けることはないため、当初はこの一方を拒否する。たださすがにそれではまずいと判断したのか、講道館の系列にある弘誠館が対戦することになった。この試合をきっかけにして日本でもプロレスという競技が存在するのだという事が認知されるようになった。この時から30年後、やがては国民的プロレスラーとして名を馳せることになる力道山が満を辞して登場することになるのだった。

日本最初のプロレスラー

ではここで日本最初のプロレスラーとして活躍した選手について話をしようと思うが、中には力道山が日本人初の、と言う風に考えていた人もいるのではないだろうか。活躍としてみれば確かにある意味間違ってはいないのだが、近年になって突如として出てきたプロレスラーの存在が浮かび上がってきたと言う話をご存知だろうか。そのプロレスラーの名前を『ソラキチ・マツダ』という人で、戦前のハワイにて重量級日本人プロレスラーとして活動していたという事が、確認されたという。

プロレスが日本で浸透してからそれなりの月日が経っているが、最近になって彼の遺族がインターネットを利用して情報を発信したことによって、初めて公に発表されることとなった。それまで黙秘されていた謎のプロレスラーだったが、遺族としては日本のプロレス史に少しでも名前を馳せてほしいという願いだったのだろう。こうした遺族の行いによってそれまで知られることのなかったソラキチ・マツダというプロレスラーが、日本人初のレスラーとして認知されるようになるのだった。意外すぎる伏線だったが、これはこれで面白い歴史だろう。

戦後から現代に掛けて

世界大戦終戦後、日本は自国の主権回復に尽力している最中だった。敗戦国というレッテルを貼られ、GHQに支配されている間はまさしく地獄のような日々を過ごすことになったという状況だっただろう。そういう意味で、日本人の意地を見せ付けるようにして格闘技で名を馳せるというのはやはりまたとない機会だったのだろう。ボクシングがその中では代表的かもしれないが、プロレスもまた活発に活動して行くこととなった。力道山が本格的に台頭したのは1951年となり、それから柔道界で名を馳せていた人々がプロレスを行うなどをしていたが、それにはわけがあった。当時GHQによって柔道や剣道、空手といった日本国技とも言える武道を実践することを禁じられてしまった事が大きく影響している。そのためにプロレス、そして辛うじて行うことが認められた相撲が日本人にとって馴染みのある格闘競技としてその名が広まっていった。

そうした中で力道山が外国人レスラーに対して攻撃をする様は、反米感情に苛まれていた多くの日本人を揺るがすほどに感動を沸き起こしたことによって、その地位を不動のものへと押し上げていく。その後力道山が率いる日本プロレスの独占市場となるのだが、力道山が若くして死去してしまったことでその後続々プロレス団体が旗揚げをすることなる。さらに現在では国会議員としても活動している『アントニオ猪木』が新日本プロレスの設立したことも相まって、力道山を中心としたプロレス団体はエースを失ったことによって空中分解の如く、崩壊へと向かってしまうのだった。

それだけの人気があったということに他ならないのだが、プロレスの人気も1990年代以前までは健在だったものの、やがて団体がこれ見よがしに乱立したことも相まって人気は低迷することとなる。もちろんこうした中でも才能ある、カリスマ性と呼ぶべき能力を持った選手が台頭してくるようになるのだが、そうした一部の選手だけに観客が魅了されてしまうという一極性をもたらしてしまうなどの問題も起こり、さらに総合格闘技の世界にも台頭するなどしたが人気を集めることは叶わなかった。

その後リング上で死亡するなどした、これまで蔑ろにしてきた問題が顕著に出てくるなどしたため、内部統制をしっかりしなければならないなどの意見も出てくるようになる。また大手団体の一部は選手の移籍などが相次いで起こるなどしたため、やはり安定しない時期を迎えることになるのだが、それでもプロレス自体が衰退しないのは、根底に気づき挙げた物が大きいからなのかもしれない。